この頃オイルショック、トイレットペーパー騒動
東京・足立区に生まれる
足立区梅島で誕生。
アイス評論家
この頃オイルショック、トイレットペーパー騒動
足立区梅島で誕生。
この頃昭和から平成へ、消費税3%スタート
都立荒川工科高等学校 電気科。なんとか卒業。
この頃バルセロナ五輪、「冬彦さん」現象
工業高校を卒業後、新卒で不動産開発会社に入社。入社前の新人研修では、自衛隊研修や座禅研修、カクテル研修などを体験した。配属先は、自社フード事業が展開する六本木の台湾レストラン&バー。夕方に出勤し、早朝まで働く昼夜逆転の生活。社会の厳しさに打ちのめされ、わずか3カ月で退社した。社会人キャリアはスタート直後につまずいた。
友人の誘いで地元足立区の飲料配送会社に就職。都内の駅構内への飲料配達業務。友人と気軽にできて楽しかったが、結局飽きてしまい、この仕事も10カ月で退職。
この頃Jリーグ開幕、記録的冷夏で平成の米騒動
中長距離の運送会社に転職。配達先は浜松、京都、青森など。運転席後方の寝台で寝泊まりし、足柄SAで温泉に入るなど、今思えば良い経験だった。当時はカーナビなどなく、昭文社のマップルを見ながら目的地に向かう。帰り荷は、公衆電話から物流会社に片っ端から電話をかけて自分で確保するシステム。帰り荷がとれなければ高速は使えず、どんなに遠くても下走りで帰らなくてはいけないルールだった。なかなか過酷な仕事だったが、トラックを自由にカスタマイズできることが何よりの楽しみで、稼いだお金はすべてカスタムに消えた。
この頃関西国際空港開港、プレイステーション発売
フォークリフトの資格を取得し、茨城県古河市にある運送会社に就職。物流倉庫にて住宅建材の積込・構内作業に従事。
この頃阪神・淡路大震災、Windows95発売
運送会社、飲食店、ガソリンスタンド、引っ越し業者、ビル清掃──この時代、実にいろんな職場を渡り歩いた。フリーターと無職を行き来する、いわゆるジョブホッパーだ。金銭的な余裕もないのに車を2台所有し、競馬にハマって場外馬券場にも足繁く通った。 必要な分だけ働いて稼ぐ。今でいうスキマバイト的な動きをしていたので、ある意味、時代を先取りした働き方だったといえる(笑)。一番愚かで、中身がなくて、それでいて妙に充実した期間だった。 ただ、徹底的に「ダメ」を実行すると、その反動で人生を見つめ直すきっかけが生まれる。20代というのは、散財して、自堕落で、無計画にでたらめな生き方をしながら、世の中と自分自身を知るための時間なのかもしれない。今振り返っても本当に中身のない時代だが、後悔はまったくない。むしろ、正しく愚かな、若者らしい時期を過ごせたと思っている。
この頃シドニー五輪で高橋尚子が金、2000円札発行
ふと、コンビニの棚に並ぶ雑誌を手に取り、ペラペラとめくってみると、「PCスキルを武器に、ビジネスチャンスをつかみとろう!」という見出しとともに、ITでバリバリ稼いでいる人たちが事例として紹介されていた。 なかでも特に気になったのは、"PCスキルで起業したネットベンチャーの雄"オン・ザ・エッヂ代表取締役・堀江貴文氏(当時27歳)。そう、ホリエモンだ! 記事の中では「一番稼げるのはプログラムを組める人。それだけでも十分な収入が得られるよ」というコメントとともに、起業のきっかけや当時の会社の状況などが紹介されていた。 その記事を読んだ瞬間、胸が熱くなり、無駄に興奮した。いわゆるガテン系・ブルーカラーの仕事から、なんの知識もないままIT業界への転職を試みることにしたのだ。近所のコジマに走り、パソコンを購入。スキルもないのに、同時に転職活動を開始した。
約5年間、汎用系のシステム開発にPG /SEとして従事。複数の現場に配属されるが、ずっと落ちこぼれていた。仕事が本当にできな過ぎて、上司を泣かせてしまうこともしばしば。しかし、この時代に、ダイヤルアップ接続からブロードバンドの時代に移行。PCをはじめ、ネット知識、WEBの知識をたくさん吸収することができた。ガテン系から未経験でのIT業界への転身は明らかに無謀なチャレンジで、日々辛くて大変だったが、今思えば、この時代が自分自身を一番成長させてくれた時期。
この頃日韓ワールドカップ開催、「タマちゃん」ブーム
まったく異なる業界から、知識も経験もないまま「これからはITだ」と考えて転職した。最初に就いたのは、企業の基幹システムなどを扱う汎用系プログラマーの仕事だった。しかし、働くうちに、自分が本当にやりたいのはシステムの裏側をつくる仕事ではなく、ユーザーの目に直接触れるWebサイトのデザインやホームページ制作なのだと気づいた。そこで、書籍や当時のインターネットを頼りに、独学でWeb制作の勉強を始めた。 さらに、新宿にあった「あとらす21」のWebクリエイター養成講座に申し込み、土日の休日を使って半年間通った。受講にあたって利用したのが、雇用保険の「教育訓練給付制度」。この制度は1998年12月に始まったもので、当時は一定の受給条件を満たし、指定講座を修了すると、入学料や受講料の80%が支給された。制度創設時の上限額は20万円だったが、2001年1月からは30万円に引き上げられている。 ただし、給付金を受講前に受け取れるわけではない。まず授業料を自分で支払い、講座を修了した後にハローワークへ申請して支給を受ける仕組みだった。そのため、受講を決めた時点で、まとまった授業料を自力で用意しなければならなかった。 当時は住宅ローンなどの支払いもあり、生活にはほとんど余裕がなかった。そこで授業料を工面するため、平日の仕事に加えて、広尾にあったインターネット関連企業でも副業をした。本業と副業をこなし、週末はスクールに通う生活。振り返ってみると、あの頃は、ほとんど休まず働いていた記憶しかない。
この頃六本木ヒルズ開業、「世界に一つだけの花」大ヒット
起業に興味を持ち、ビジネス書やメルマガを読みあさっていた。そのなかで、Web制作のフリーランスとして生計を立てている人がいることを知った。ノーブルウェブの松原さん。高円寺を拠点に、地域に根ざした仕事をしている方だった。 ある日、いつものようにメルマガを開くと「外部スタッフ募集」の文字。すぐにアポイントを取って高円寺へ向かい、弟子入りした。会社帰りに高円寺に通い詰めて制作の進め方から見積書の書き方、名刺の作り方まで、手取り足取り教わりながら、週末起業をスタートさせた。 あのとききっかけをくれた松原さんには、今でも感謝している。
この頃アテネ五輪でメダルラッシュ、韓流ブーム
「地域活性化推進計画」を掲げ、地元・東京都足立区竹ノ塚の地域情報サイトを開設。Yomi-Searchによる地域特化型検索エンジン、OpenPNEによる足立区限定SNSなど、足立区をテーマにした複数のWebサイトを構築・運営した。当時はまだ会社員。週末はもちろん、平日も仕事から帰宅後に夢中で更新を続けた。Web制作の勉強を兼ねた趣味の活動だったが、超ニッチな取り組みが注目され、地元メディアに多数取り上げられた。
この頃愛・地球博、「電車男」ヒット
独立といえば格好いいが、実際は現実逃避に近い形で会社を辞め、Web制作で起業。個人事業主(フリーランス)として、自宅を作業場に、地元企業のWebサイト制作を受託で始める。地元で開催される起業セミナーや異業種交流会などに積極的に参加して仕事を受注。地域サイトや地域限定SNSの構築・運用、オフ会の主催なども行いながら、地元の新聞社や地域誌、信用金庫などのHP制作を手がけていた。屋号は「かめれおん工房」。キャッチコピーは「変幻自在のウェブデザイン」だった。
この頃第1回WBCで王ジャパン世界一、ワンセグ開始
2006年、セントラルスコープの「山吹色のお菓子」のWeb販売をレベニューシェア方式で開始した。時代劇でおなじみの「おぬしも悪よのう…」の場面——悪代官と商人が交わす袖の下(ワイロ)を再現した、小判型容器入りの和風パイである。2026年に惜しまれつつ販売終了となったが、"山吹色のお菓子の復刻"というジャンルを切り拓いたパイオニア(その後、模倣品が溢れた)であり、間違いなくワイロパロディ界の一時代(なんだそれ)を築いた商品だった。
法人化を機に、東京都足立区竹ノ塚の地元信用金庫が運営する創業支援施設へ入居。同施設を拠点にWeb制作事業を本格始動する。
新たな営業拠点として、原宿にサテライトオフィスを開設。といっても千駄ヶ谷にある知人の会社の一角を間借り(10坪程の)スペースだった。都心に住所を置いた途端、制作の仕事が急激に増えた。やはり「イメージ」というのは重要なのだろう。
この頃初代iPhone登場、ビリーズブートキャンプ流行
間借りしていた知人の会社が経営破綻し、千駄ヶ谷の営業拠点を引き上げて、竹ノ塚事務所に一本化した。振り返れば、わずか半年ほどの営業拠点だった。しかし、この経験がきっかけで立地の重要性に気づかされた。新規案件の獲得や既存クライアントとの打ち合わせを考えると、やはりもう少し都心にオフィスを構えるべきではないか——そう思い始めていた。
この頃リーマン・ショック、日本でiPhone発売
東京都千代田区外神田に、10坪ほどのオフィスを構える。自ら家具を組み立て、時には寝泊まりしながら、Web制作に明け暮れる日々。上野と秋葉原の中間という立地ゆえ、手頃なランチには事欠かなかった。もっとも、受けるのは単価の低い案件ばかりで、まさに貧乏暇なし。働けど働けど利益は残らず、次第に資金繰りが行き詰まり、経営は坂道を転がるように傾いていった。
この頃政権交代、WBC連覇
変態カメレオンの自社プロダクト(セントラルスコープ社とのタッグ 第2弾)として、顔写真入りのパロディーカード「妄想ライセンス」をリリースした。巨大ロボ操縦免許証やUFO運転免許証など全8種類、1枚700円。これがテリー伊藤さんの目に留まり、テレビで「UFO運転免許証」を紹介してもらえたことで、バカ売れ。ザリガニワークスさんとの(コレジャナイロボ)コラボや東急ハンズなどでの実演販売にも発展した。
この頃探査機はやぶさ帰還、スマホ普及元年
アイス専門レビューサイトを立ち上げる。人生が「アイス」に向かって収束し始めたターニングポイント。
ジリ貧の経営難に陥り、事務所の家賃も払えず、ついには自宅を売却。事業をゼロから考え直すことになった。半ば諦めかけていたとき、オープンソースのWordPressで、ポータルサイト形式の無料テーマ(ブログのテンプレート)を見つける。そこで思い出したのが、2003年頃から温めていた企画——コンビニアイスの紹介サイトだった。マネタイズは一切考えず、昔から好きだったアイスに振り切ろうと決意した。
自社プロダクトとして、本田宗一郎や孫正義らが創業当初に行った"みかん箱演説"を再現できる、木製のみかん箱(5万2500円)を発売した。成功の秘訣は、努力でもセンスでもなく「みかん箱」だ──ということに気づいてしまったのである。 当時、木製のみかん箱はすでに流通しておらず、サンプルを100個以上作ってようやく復刻にこぎつけた。このプロダクトは日経MJなどにも取り上げられ、話題となった。 そして、このみかん箱に奇跡が起こる。2014年、なんと当時のホンダ社長・伊東孝紳氏が、記念式典で実際にこの「みかん箱」を使ってくれたのだ。笑
この頃東日本大震災、なでしこジャパンW杯優勝
経営していた会社が行き詰まり活動拠点を失うも、ヤケクソでアイス専門ポータルサイト「コンビニアイスマニア」を開設し、日本初のコンビニアイス評論家として活動を開始した。
2011年4月2日、東京都産業労働局秋葉原庁舎にて第1回「青春!バカサミット2011(春)~四月バカの集い~」を開催。柳澤大輔さん、ザリガニワークス、齊藤正明さん、八木宏一郎さん、寺井広樹さん、家入一真さんら7社が登壇。 東日本大震災直後の自粛ムードの中で決行し、登壇者7社がギャラを辞退。収益286,900円を全額震災義援金として寄付した。
アイスマニアとして、日テレ「ヒルナンデス!」に生出演した。人生初の生放送。めちゃくちゃ緊張したのを今でも覚えている。 当時はちょうど、コンビニのプライベートブランドが出始めた時期。コンビニアイスやコンビニスイーツの特集はまだ少なく、特定の分野に特化したマニア自体が珍しい存在だった。この年の11月に「マツコの知らない世界」がスタートすると、そこから特化型マニアが一気にブーム化し、急増していくことになる。
東京総合美容専門学校にて開催。第1回メンバーに加え、シモダテツヤさん、FROGMANさん、AR三兄弟 川田十夢さん、株式会社人間らが新たに登壇。
この頃東京スカイツリー開業、ロンドン五輪
池袋・東京総合美容専門学校にて開催。土屋敏男さん、ヨシナガさんらが登壇。
連続起業家・家入一真さんのご厚意で、六本木の柳ビルにあるシェアオフィスへ移転する。ここは、かつてホリエモンこと堀江貴文さんが起業した、いわば聖地のような場所だ。当時そこには、BASE、CAMPFIRE、メルカリ、インターステラテクノロジズなど、後に名を馳せる企業がスタートアップ創業期で集まっていた。それも、ひとつの部屋(シェアオフィス)に。例えるならスタートアップ界のトキワ荘的な環境。今思えば信じられない環境である。 この経験で実感したことがある。人生に正解はなく、挫折したからこそ見える景色があるということ。事業に躓かなければ、この場所に居合わせることはなかった。物事がどう着地するのか、あるいはどう着地させるのか。目先の答えを急がず、長い時間軸で俯瞰することの大切さを、あの部屋で学んだ気がする。
TBS『マツコの知らない世界』に、「コンビニアイスの世界」(前編・後編)として2週にわたり出演。当時はまだ深夜枠で、ゴールデン進出を果たして国民的番組となる前のことだ。収録で目の当たりにしたマツコさんのアイスを食べる量は尋常ではなく、ただただ驚かされた。アイス評論家として駆け出しの時期だったが、今振り返れば、ゴールデンよりもマニアックに、思う存分アイスを語れた深夜枠での出演は、むしろ得がたい経験だった。
「青春!バカサミット」を開催したことで、週刊SPA!でたくさん取り上げていただきました。そして、扶桑社よりジョーカー福留名義で刊行。まさか自分が本を出すとは思ってもみなかった。人生って本当に何が起こるかわかりませんね。
3331 Arts Chiyodaにて開催。日本ふんどし協会や桃山商事などがスピーカー、柳澤大輔さんらが審査員を務めた。
この頃富士山が世界遺産に、「倍返し」流行
アイス評論家監修のアイスマニア専用スプーン「アイスクリームシャベル」を発売。7月には第2弾として、ゴールドバージョンを数量限定で発売した。
5月11日・12日に東京総合美容専門学校とYAMANO HALLでバカサミット史上初の2DAYS開催。開催理由としては2DAYSと言いたかったから、2日間開催で会場も2つに分かれて本当に意味がわからないことに…。
六本木4丁目の六本木ビルのシェアオフィスに移転。アイスの仕事が徐々に増える。
小学校でアイスクリームの授業を開催。たくさんの小学校をまわってアイスの魅力を伝える。
家入一真さんの紹介で入居した六本木ビルのシェアオフィスに堀江貴文さんの会社が入居しており、そのご縁で開設したばかりのYouTube「ホリエモンチャンネル」(寺田有希さん)にゲストとして2013年10月に初登場。その後しばらく出演した。堀江さんは起業のきっかけ(2000年のヒストリーに投稿したとおり)となった人物で、貴重な経験となった。
アイスマン福留監修のリアル過ぎるアイスが乗ったiPhone 5s/5ケースを発売。チョコクランチバーとダブルソーダを考案。妥協せず、細部までこだわりリアルなアイスフォンケースが出来上がったが、とにかく重すぎて実用性はゼロだった。
この頃消費税8%に、「アナと雪の女王」大ヒット
コンビニアイス評論家として活動していたが、アイスクリーム全ジャンルの振興を目的に協会を設立。 代表理事に就任。肩書きもアイス評論家に変更。 コンセプトは「COOL ICE JAPAN!」、5月9日「アイスクリームの日」より本格始動。
この頃北陸新幹線開業、ラグビー日本が南アを撃破
『日本懐かしアイス大全』を出版。同年、アイスクリーム万博「あいぱく®︎」を原宿で初開催。評論家からイベントプラットフォーマーへ。全国各地のご当地アイスを集める国内最大級のアイスクリームイベントとなり、累計来場者数は440万人を突破。
辰巳出版より刊行。昭和から平成にかけての懐かしいアイスを網羅的に紹介したビジュアルブックである。懐かしいアイスの記憶は誰もが語りたがる鉄板の話題でありながら、それを一冊にまとめた本はこれまで存在しなかった。ならば自分が、と企画を持ち込み(正確には、あるパートの執筆依頼だったものを丸ごと担当させて欲しいとお願いをして実現)、形にしたのが本書だ。辰巳出版はもちろん、優秀な編集プロダクションの方々とともに作り上げた、初めてのアイス書籍。アイスクリーム流通新聞社から数十年分の資料をご提供いただいたほか、国立国会図書館や大宅壮一文庫に通い詰めてデータをまとめる作業は骨が折れたが、それだけに達成感もひとしおだった。
第1回「あいぱく」は大盛況のうちに幕を閉じた。しかし、収支計算をしてみると大赤字。イベント初経験ゆえに無駄なコストをかけ過ぎたのだ。事業に失敗し再起を目指していた矢先に約1000万円近くの赤字。日本唐揚協会の八木さんに助けていただき、耐えしのぐ…。会社経営もろくにできないイベント未経験の素人が安易に手を出してはいけない分野だと痛感した。しかも、事務所さえ借りられずシェアオフィスにお世話になっている身なのに、多額の負債のほか、売れ残ったアイスの在庫保管費として、毎月家賃以上の金額を払い続けなければならなくなった。人生、うまくいかないものだ。
ゴールデンタイムでの放送。番組の影響力は想像を絶するものだった。放送直後にはコンビニのアイス売場から紹介商品がほとんど姿を消すほどの反響を呼び、「冬アイス」は一大ブームとなった。この回を境にテレビの仕事も激増。マツコさんの影響力、恐るべし。
この頃熊本地震、ポケモンGO・「君の名は。」
シェアオフィスの契約期限終了につき、行き場を失う。事務所を借りるにも資金が無い。知人のはからいで、当時田町近くのビルにあった旅行会社グループのコンテンツ事業部に外部スタッフとして所属することに。オフィスの一角に席を借り、そこを拠点にアイスの活動を続けた。
冬場のアイス需要を喚起するため、一般社団法人 日本アイスマニア協会は11月15日を「冬アイスの日」に制定。一過性のブームで終わらせず、日本の文化としてカテゴリを確立することを目指した記念日である。
この頃平成から令和へ、ラグビーW杯日本開催
アイスの歴史を体系化した2冊目の著書。書籍の出版は仕事を増やしてくれるので大事。
新橋駅からすぐ近く。外堀通り沿いの雑居ビルにオフィスを移転。築年数の古い20坪ほどの物件だったが、久しぶりの拠点開設に心が躍った。場所は銀座8丁目。夜の街という土地柄か、ビルのエレベーターはいつも香水の香りに包まれていた。
アイスクリームの本格的な撮影を目指し、フルサイズミラーレス(Nikon Z9)を購入。写真家の鈴木遥介さんのサポートを受けながら、オフィスにストロボ撮影の環境を構築。
この頃新型コロナ流行、「鬼滅の刃」記録的ヒット
新型コロナウイルスの流行によりイベント事業がすべて中止となり、収入源を断たれた。業種柄補助も受けられず、多額の融資を借りて冬眠状態となった。
例年夏の時期は多忙で執筆が難しかったが、イベント中止で時間ができ、ゆっくりと書籍の執筆に取り組んだ。
2020年4月17日、ご当地アイスの通販サービス(キュレーションEC)「房蔵總本舗−FUSAZO−」を開設。名前の由来は、明治2年(1869年)に横浜・馬車道で日本初のアイスクリームとされる「あいすくりん」を販売した町田房蔵。第二の房蔵を目指す、という想いを込めたサービス名でスタートした。
この頃東京五輪を1年延期で開催、大谷翔平MVP
千葉ロッテマリーンズの試合「ゴクッとしあわせ クーリッシュスペシャルデー」にゲストとして招かれ、ZOZOマリンスタジアムで始球式に登板。まさかスタジアムのマウンドに立てる日が来るなんて...。大変貴重な経験をさせていただきました。本企画を推進してくれたロッテのKさん!ありがとうございました。アイスの活動を続けててよかった。
進化する定番アイスをテーマに3度目の出演。
この頃記録的円安、サッカーW杯でドイツ・スペイン撃破
2022年1月からブランドを統一し、アイスクリーム専門通販「房蔵總本舗」を、「あいぱく®ONLINE」に名称変更。アイスマン福留および日本アイスマニア協会が厳選したキュレーション型のご当地アイス専門ECサイトとして稼働。
大規模ホール公演とオンライン配信を実施。家入一真さん、土屋敏男さん、FROGMANさん、ザリガニワークス、川田十夢さんら各界の著名人が登壇。バカサミット史上最大の赤字をたたき出す。豪華ゲスト陣がノーギャラで出演しているのに開催して一度も黒字化しないバカなイベントだ。
wework ginzasix内に個室を借りる。
この頃WBCで世界一、生成AIブーム
この頃新紙幣発行、パリ五輪
思いつきから始まり、当初は赤字続きだった「あいぱく®」。それが今や、累計来場者数450万人を超える人気イベントに成長し、国内最大級のアイスクリームフェスとして、日本のフードフェスを代表する存在にまで育った。 2024年7月、大規模な都市型プレミアム版として「あいぱく® Premium TOKYO 2024」(新宿住友ビル 三角広場)を開催。ここで初めて入場の有料化に踏み切った。初開催から実に9年。ようやく赤字開催からの脱却を果たした。 ただし、すべての「あいぱく®」を有料化したわけではない。百貨店催事など、通常の商業施設での開催では、現在も入場無料の会場がある。
「未来に残したいレジェンドアイス」と「ご当地アイス」をテーマに、「マツコの知らない世界」へ4度目の出演を果たした。この回、迂闊にも制作チームのサプライズ構成で泣かされてしまった。まさか全国放送で自分の泣き顔が流れる日が来るとは、夢にも思っていなかった。うーん、恥ずかしい。
この頃大阪・関西万博開催
ワールドコウゲイ社の協力のもと、あいぱく10周年を記念し、全国47都道府県から厳選した約100種類のご当地アイスとクラフトソフトクリームを提供するアイス専門店を原宿にオープン。同時に「クラフトソフトクリーム」という概念が生まれた。
この頃北中米サッカーW杯、ミラノ・コルティナ冬季五輪